八月
今週のお題「苦手だったもの」
#ニートの独り言 #底辺文学
— last neet (@Last_neet83) August 28, 2023
八月が苦手だった。
たぶん幼少期の頃からだ。
夏が嫌いという訳ではない。
ただ、八月が終わると新学期になる。それが苦手だった。私は幼稚園へ通っていた頃から家にいるのが好きだった。
夏休み、それは家にいることが好きな私にとって一年で一番好きな期間だ。
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本文
八月が苦手だった。
たぶん幼少期の頃からだ。
夏が嫌いという訳ではない。
ただ、八月が終わると新学期になる。それが苦手だった。正しくいうならば、それだけが嫌な訳ではないが......私は幼稚園へ通っていた頃から家にいるのが好きだった。
夏休み、それは家にいることが好きな私にとって一年で一番好きな期間だ。
私が子供の頃は、七月後半から夏休みが始り、八月いっぱいまで続いた。
七月、テンションは最高潮。今年の夏休みは何だってできるぞ!くらいに気分は高揚する。
実際は何もしない。朝から晩までテレビを見て、ゲームをするだけ、家族に外出を促されると嫌々外出した。
我ながら、ロクな子供ではなかった。特段友達も多くなかった私は、夏休み期間中の予定などほとんどない。
あるのは両親によって決めらた外出程度である。
地域のラジオ体操には一度も行かなかった。
親にも行くことを強制されなかったのも、一つの要因である。
しかし、代わりに小学校でのプールや自習へは毎回参加させられた。
クーラーの効いた部屋での自習。夏休みの宿題をするという名目だが、一切手をつけなかった。
決められた自習時間中、何もしなかった。時間をそのままフレッシュに頂いたのである。せめて読書くらいしておけば良いものを、私はそれすらしなかった。
今にして思えば、これが私の性分だったのか、やるべき時にやるべきことをせず後悔ばかりする。
自習とプールが終わると家に帰り、何もしない1日が再会するのであった。
人生において、夏休みの宿題が余裕を持って終わったことは一度たりともない。
そんな人間になるのは必然だったのかもしれない。
夏休みも残すところ一週間ともなれば流石の私も焦りが生じる。
ここで焦ることすらなければ、宿題をしないと心に誓うことができる意志の強さがあれば、私は変われたのかもしれない。
けれど私には、その強さはなかった。
宿題を提出せずに怒られるのが嫌だった。それは私のプライドが許さなかった。
それはいらぬプライドだと今でも思う。
無駄なプライドで宿題を提出すべきと感じるのに、残りの夏休みは一週間だというのに、私は宿題を全くやらない。
やりたくないのである。私はやりたくないことはとことんやらずに済まそうという人間であった。
しかし、宿題の提出はどうにかしたい。宿題を提出しない自分には耐えられない。無駄にプライドが高い、本当に無駄なプライドである。
宿題をやりたくない。宿題は提出しないといけない。
その葛藤で一週間は過ぎていく。
迎える8月末日。夏休み最終日の朝。
私の宿題は9割残っている。それは私が学校に通っている間、毎年恒例になっていくことになる。
朝のテンションは程よく高い。時計を見て昼前だというのに一切の焦りはない。
私なら残った宿題を確実に終わらせられると謎の自信が湧くのだ。
しかし、現実は非常なもので、一つの宿題に手をつけ出すと、重ずと進む速度はわかるのである。
昼食を食べ終わると自信は地に落ちる。全く終わらない。昼食前に半分の宿題を終わらせる計画でいた私は絶望するのである。
しかし、まだ日は登っている。外は明るい。
休まずに宿題を進めれば、夕食までには宿題は終わるはず。何故か毎回、自身のイメージする宿題をする私は天才なのである。
書く速度、思考する速度は共に最高速をキープできると本気で確信しているのだ。
そして私は普段読まない漫画を本棚から取り出すのである。
普段読まない漫画は不思議と面白く感じ、どんどん読み進める。気がつくと外は暗くなり、夕食の時間になっている。
その間、宿題は一切手をつけていなかった。
実際この時間だけで宿題が終わるのか?というと疑問である。多分終わらないだろう。
それでも多少は減ったはずだ。
しかし、私はその多少宿題を減らせたであろう時間を使って、普段読まない漫画を読んでしまうのである。なぜか空腹にはなっている。
私は夕食を食べながら、残りの宿題を終わらせる計画を巡らせる。
ここでもまた、自身イメージは自分史上最高の天才になっているのである。
夕食を食べ終わると、計画通り宿題をスタートする。
ここで異変に気が付く。
遅い。私の筆記も思考もイメージする半分の速度も出ていないのである。1時間で終わる予定の宿題に3時間かかっている。
このままでは就寝時刻までに宿題が終わらない。
私は初めて絶望するである。
それでも無情にも時は進んでいく。
ちなみに学年が低い頃は、宿題の量も少ないため、ギリギリ就寝時刻までに宿題を終わらせた。
しかし、学年が上がるにつれて計画はより狂っていく。
指数関数的に宿題の処理時間は増大した。
答えを丸写ししても終わらない算数ドリル。
もう意味すらわからずに写経する国語ドリル。
何も思い出せないで記述する日記。
読んでいない本のでっち上げの読書感想文(ひどい時は本すらこの世界に存在しない架空のタイトルだったこともある)
それが私の夏休みの宿題だった。
そしてある夏休みの最終日、私は宿題が終わらずに人生で最初の徹夜を経験するのであった。
その後の人生で課題が終わらずに徹夜をする癖がつくとは知る由もなかった。
必死に夏休みの宿題をやって、無理やり終わらせて、それで学校に行く。
私にとってこの上ない絶望だった。
結局、夏休みの宿題によって学力が向上することはなかった。当たり前である。
そんな経験を10年以上経験した結果。
学生ではなくなった今でも八月は苦手である。
なんとなく、学生時代を思い出してしまうからだろうか?あの頃と違って宿題などないというのに、、、
夏休みの宿題をどうやって終わらせるかによって人の生き方が決まると私は思う。
私のように最終日に詰め込み、絶望する人は瞬発力はあっても計画性に乏しく、ロクな人間にならないのかもしれない。
可能なら、夏休み宿題は7月中に終わらせるような人生にしたいものである。